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 魔界の花嫁。
 その性質を的確に指し示すのは、その呼び名そのものだ。魔王の伴侶、次代の王の母、それらは重要な役割であるが、「花嫁」の全てではない。
 己が全てを魔界の大地に与え、命を落とす事を運命づけられた存在は、正に「魔界」の為の花嫁だ。 故に、その命も心も、特定の誰かの為に動かされる事はあってはならない。――――ただ、生まれ落ち、産み落とし、捧げる為の「命」。
 それを、他に何と呼べばいいだろうか。



「だから、子猫ちゃんはボクの花嫁、って云うのとは少し違うかな? どう思う? ラドウ」
 カラリと彼が傾けたグラスから硬質な音がする。
 血の色をした液体を大した興味も見せずに眺めている彼の瞳の色は更に深い紅だ。
 プリンス・カオス・クリムゾンという彼の名が示す通りに。
 その彼からの問いかけ。だが、これは意見を求められている、という訳ではない。彼は魔界の王子であり、ラドウのような存在に意見を求めるような教育は受けていない。ラドウはそれなりの力を持ったバンパイアではあるが、あくまでも、それなり、という言葉で表わされる程度なのだ。
 プリンスや……リトルとの間には、大きな差がある。つまり、彼の問いかけは、ラドウの答えを試す為だけのもの。 それが意に沿うものでなければ、遠ざけられて、終わるだけだ。
 そして、遠ざけられたとしても、記録にも残らない。その程度の扱いが、今のラドウに与えられた最上級のものだというのが現状の全てだ。
(……リトル)
 何の力もないのだ。それがたとえ屈辱であろうとも認めなければいけない。
 大事な妹を、家族を守りきる為に必要なのは、今、自分が耐える事だと冷えた頭が答えを出す。そんな自分をラドウは他人事のように分析しながら慎重に口を開く。
「……それでも、リトルは貴方の為の花嫁です」
 プリンス・カオス・クリムゾンの為の花嫁。リトルがまだ、リトル・ドラクレアになる前から、定められた運命の相手だ。
「貴方の、ためだけの」
 繰り返したその答えは、それなりにプリンスを満足させたらしい。さっきまで皮肉げに結ばれていた口元が、機嫌の良い笑みへと変化している。
「可愛いよね。リトルは。笑ったり怒ったり、どんな顔も良く似合う。魔界の女なんてヒステリー持ちで喧しいだけだと思ってたけど、リトルなら愛してあげられそうだ」
 笑ったり、怒ったり、そのどれもから目が離せない。リトルに大して彼が思うそれはラドウの秘めた感情に良く似ている。
それを喜べばいいのか、恐れるべきなのか、ラドウにはまだ判断がつかない。
「ちょっと、プリンス。ヒステリー持ちって、まさか私の事も含んでるんじゃないでしょうね」
 眉を吊り上げて、プリンスに詰め寄ってきたのはマリーだ。姉弟水入らずの茶会で何故、自分が給仕を任されているのか、と言えば、全てはその話題が「花嫁」に関するものだからだ。
もっとも。これは、マリーにとって大事な話題ではあるようだが、微妙に面白くもない話題でもあるらしく、先程から此処―――プリンスの私室で優雅なティータイムを過ごしている彼女の白いカップの中で真っ赤な液体が波立っていた。
 魔界名産の茶葉を使ったミックスティーはこちらもまた血のように赤く美しいが、これ以上気が立ったら、それをラドウの頭の上にぶちまけそうな気配さえある。
「そう? この間も、ボクの所に押し掛けてきた婚約者の……誰だっけ、ああ、髪の赤い子をいびってたって聞いたよ」
「あら。いびってなんかいないわ。私に向かって、生意気な口叩くから、腹に穴あけてやっただけじゃない。それと、髪の色は青灰だったわよ。自分の婚約者くらい覚えておいてあげなさいな」
 たしなめるような言い方をするものの、マリーの声音からは、面白がっているような気配が感じられる。それは、プリンスにも伝わっている筈だが、こちらもやはり、そんな態度を咎める気はないようだ。
 それは姉に対する敬意なのか、婚約者に対する無関心さなのか。
 その表情の動きを注視するラドウにプリンスがそっと視線を這わす。
「はは。姉上に穴を開けられた子は多すぎるからね。僕だって覚えきれなくもなるよ」
 思わずラドウがサッと顔色を青くすると、プリンスが気持ち悪いほど優しい笑みを作って、続けた。
「大丈夫だよ。ラドウ。リトルの体には穴なんて開けないよう、ちゃんと僕からお願いしておくから」
「そうね。でも、シツケが良くない子だったら、つい手が出ちゃったりするかもしれないわよねぇ。それは、仕方ないでしょう? プリンス」
 ……一拍置いて、ラドウは自分が遊ばれたのだと気づくが、だからと言って、反論などできよう筈もない。
「姉上は過激だから、少し抑えてくれると嬉しいな」
「あら。私は今だって抑えてるのよ。わかってくれてると思ってたわ」
「勿論、それは分かってるよ。だから、リトルには何もしないでいてくれてるんだよね。今は」
 笑いあう二人の底は知れない。この会話を果たして、姉弟間の微笑ましい語らいとでも評しておけば安らいでいられるのか。長く魔界から離れて暮らしていたラドウには判別が付かなかった。だが。プリンスが言うならしょうがないわね、と答えて微笑む、その唇こそマリー・マルグリットの恐ろしい所だという事は薄々と感じ取れる。
 おそらく、同じ唇で彼女は躊躇いなく、プリンスの敵を排除しようとするだろう。
 たとえ、それが「花嫁」であろうとも。
「…………どうぞ我が妹を宜しくお願い致します」
 だから、今のラドウには、それ以外に口に出来る言葉はない。
 止める父を振り切って此処に来たのは、何の為か。それを考えて、今は唇を噛み締める。
『お兄様!』
 今頃リトルはどんな思いで居るのだろうか。泣いているだろうか。それとも勝手な行動を取った兄に対して怒っているだろうか。
 想像する事は出来るがその感情に引き摺られて、必要な事を見失う訳にはいかない。

 今は、まだ何も出来ない。
それを知っている事だけ、それを忘れない事だけが今のラドウに出来る最善の振る舞いだった。


2008/11/19 UP

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