サロメの刻印2 2004,2,22up
―貴方は何を知っているのかしら。聖者よ。私の求愛を拒む何を知っているというの?
それはどこにでもあるような噂だった。
ピアノを弾く女の霊だとか、誰もいない体育館で鳴るボールの音、とか、そう言った類の噂。
「学校」という空間によくある噂…だった。少なくとも数ヶ月前には。
この学園には首を抱えた女の霊が出る。それは、この学園の元生徒とも教師とも言われるが、首を大事そうに抱えているとされる。ただし…彼女が持つ首は数種あり、その種類によって対処が違う。彼女がお気に入りを持っている時はそれを自慢する。だが、飽きてしまったものを持っている時はすぐに目を逸らして逃げなければならない。……貴方を狙っているから……。
その噂には、霊を見たという生徒が数日後には女に連れ去られてしまう、という話も付属していた。話をして怖がる生徒も居たが、大半は面白がっていた。
『私……見たんです!首を抱えた…女を!居たんですっ!そこに』
薄闇も迫る時刻、半狂乱で泣き叫ぶ女子生徒を見回りの教師が発見して宥めたのが最初の事件だった。それだけならまだ、臆病な一人の少女の錯覚ですんだかもしれなかった。
だが、それ以来、同じ事を訴える生徒が何人も現れたのだ。それは忘れ物を取りに来た少女や居残りをしていた運動部の少年、などさまざまだったが共通している事が一つだけあった。
その目撃は決まって日が落ちかかった時刻から始まるのだ。昼間に出る幽霊など居ない、と言ってしまえばそれまでだが、この「事件」以降、夕刻まで学校に残る人間の数は極端に減った。
そして決定的な事件が起きた。
一人の女子生徒が行方不明になったのだ。
その生徒は行方不明になる数日前に『幽霊』を見たと、友人に語っていた。
「怖い話ね。その人まだ見つかってないの?」
そう言ったのは戸田美冬、梨乃があの日出会った長い黒髪と瞳が印象的な少女だ。
「そーなんだよね。一つ上の先輩だったんだけど、すごい真面目でさ、家出なんかするような人じゃなかったから、もー大騒ぎでさ。で、調べたら、前の日に夕方まで学校に残ってたって解って…」
噂を事細かに語る少女が意味ありげに視線を自分に向けたのに梨乃は気づいていた。そのまま見返してやると慌てて少女は声量を抑えたようだった。
戸田美冬が転入してきて一週間が過ぎていた。不思議な美しさを感じたのはあの、夕刻という時間帯のせいかとも思ったが、日の光の下で見てもやはり彼女には不思議な美しさがあった。綺麗な硝子細工を見ているような感覚、と言えばいいのかもしれない。そんな彼女にやはり少し距離を置いていたクラスメート達ともこの一週間で随分と親しくなっている。それはその外見と同時に持つ、人好きのする笑顔のおかげだろう。
(……羨ましい話。)
美冬が不思議そうな顔でこちらを見たが、気づかないフリをして梨乃は読みかけの本を手に取った。けれど、一度注意を向けてしまったせいか、美冬に話し掛けるクラスメートの声が嫌に耳につく。
「ココだけの話なんだけど…その先輩とうちのクラスの…ほら、和倉さんって微妙な関係だったのよ」
「…微妙?」
「和倉さんもその先輩も生徒会の役員だったんだけど、そこで……」
聞こえて来るのは…クラスから、学年から、上級生から、遠回しに何度も聞いた話だ。
慣れてはいたものの、ざわつくような不快感は相変わらずだ。その煩わしさからか、梨乃は反射的に席を立っていた。
姿を消した生徒の名前は由佳川瞳(ゆかがわひとみ)、と言った。この学園の高等科二年で生徒会の会計を勤める物静かな印象の少女だった。生徒会に入り、その彼女の会計補佐についたのが梨乃だった。
始めの内は…何も問題など起こりようがなかった。先輩から指導を受けて、仕事を覚えて、時々は何気ない会話を交わしてみる。そんなごく普通の関係だった筈だった。
しかし。ある時を境に二人の関係は目に見えておかしくなっていた。
同じ部屋に居ても一言も言葉を交わさない。仕事の用件を告げる時も他人越しだ。そして、それは瞳から梨乃に対しての態度により顕著に現われているのが、暫く見ているうちに周囲にも解ってきた。
だから役員の一人が瞳に訊いたのだ。何があったのか、と。
『……何も…ありません』
瞳はその言葉を繰り返した。
そして、彼女が消えた日、最後まで瞳と共に居たと証言したのは…梨乃だった。
「今日は別の本なんですね」
校舎裏の壁にもたれて本を読み始めた梨乃にかかったのは少年の声だった。
「?……貴方は確か…」
少し色素が薄いのか、日に透けて茶色に見える髪。そして穏やかな笑顔を湛えた少年はいつの間にか其処に立っていた。
「戸田緑です。ミドリって書いてリョク。良かったら覚えてくださいね。和倉さん」
「……戸田さんの弟の…。こんにちは。此処で何を?」
彼とは一度話した。『サロメ』を手にした梨乃に美冬が話し掛けてきた日に、後から現れた彼ともおざなりの挨拶を交わした覚えはある。
「校内探険の途中って所です。何人かに案内するって言われたんですけど一人で廻ってみたくて。和倉さんは此処で読書ですか?」
そう言って彼は、姉の美冬と同じように人好きのする笑顔を浮かべた。
「そう。いつもは教室で読むけどたまに此処で」
その時、緑はその笑みを不思議な笑みへと変えて言った。
「…一人で行動できるんですね」
「…ええ。それが?」
彼が言いたいことはおぼろげに判るが梨乃は敢えて問い返す。警察を含め、もう何人にも言われた。「あの事件の後で、一人になるのが怖くないのか」、と。平然としている梨乃の姿が、幽霊説と、何者かが下校途中の瞳をおそったのではないかという事件説の他にもう一つの説を囁かせた。
梨乃自身が、その行方不明に何らかの形で関わっているのではないかという…話だ。そうでなければもっと取り乱してもいい筈だと。
「それが、何か?」
問い返す梨乃に緑はしばらく何も言わなかった。
「すみません。気を悪くして当然ですよね。こういう所があの人に怒られるんだって分かってはいるんですけど」
(あの人?)
不審そうな顔を正確に読み取ったらしく緑は梨乃が問い掛けるより先に答えを出した。
「姉さんです。僕の言い方が悪いせいでよく怒らせてしまうんですよ。見透かしたような顔で人の傷口を抉る所が嫌だって、半分殺されかかった事もあるくらいで」
くすくすと笑いながら冗談めかして彼は語ったが、梨乃は笑えなかった。
(……傷…)
「すみません。邪魔して。じゃあ、僕はこれで」
『梨乃…梨乃…怖いよ。わたし…怖い』
泣いた彼女。二人になれば決まってそう言った彼女。
『……梨乃…わたし』
彼女が本当に怯えていたのは……………。
「私は!」
立ち去ろうとしていた緑の背に向けて、梨乃は咄嗟に呼びかけていた。けれど。その先の言葉は出てこない。
「…………わたしは」
瞳と二人で学校に残った日、彼女は消えた。『気が付いたらいなかった。帰ったのだと思った』、警察と学校側の質問に梨乃はそう答えた。そう答えるしかなかった。
「別に貴方を追い詰めるつもりはないんですよ。本当に」
止まったままの梨乃を見て、振り返った緑は苦笑する。
「でも。どうせだから一つだけ、質問です。和倉梨乃さん、貴方は『首を持った女の幽霊』をどう思いますか?」
どう、と言われても困る。けれど。
「信じるかどうかなら簡単。…私は、人を連れ去る幽霊なんて信じてない」
薄暗がりの中で二人は言葉を交わしていた。
「信じてない、ってのは本当だと思いますよ。でも、それだけでもないんじゃないでしょうか」
一つは少年の声。
「彼女が何か、別のことを知っているって?」
もう一つは少女の声。
「多分。彼女は頭がいいし、冷静です。だから周囲からいらぬ誤解をされるんでしょうけど、彼女は彼女で事件には思う事があるみたいですよ」
「……あんた、動揺を誘うような事を言ったんじゃないでしょうね」
「そんなつもりはなかったんですけど……」
「したのね。……やるとは思ったけど」
溜め息が一つ。
少年を睨みつけながら少女は机の上でキーボードを叩いていた。表示される画面にはめまぐるしい速度でデータが取り込まれていく。
パソコン画面の明かりに照らされる中、少女の長い黒髪は、さらりとキーボードにかかっていた。