サロメの刻印
お父様、どうか、くださいませ。わたくしにヨカナーンの首を。
「それ、サロメ?」
もう夕闇も迫った教室で和倉梨乃の背後から澄んだ少女の声が聞こえた。まだ人が残っているとは思っていなかった梨乃は少し驚いて後ろを振り返った。
真先に目に入ったのは流れるような黒髪だった。
そこに立っていたのは梨乃の見知らぬ少女だった。年の頃は、同じくらい、15、6といったところだろう。制服は梨乃と同じだったが、まだ新しいようだ。
そして、何より少女は非常に整った顔立ちをしていた。それが梨乃に少女に会ったことがない事を確認させた。同じ学園の生徒なら、こんな美少女に気づかない筈がないのである。
「貴方…うちの生徒?」
少し不審そうな顔をした梨乃に対し少女は、あ、と小さな声をあげてから笑った。
「ごめんなさい。先に挨拶しなきゃ、いけなかったのに。私もそれ、つい最近読んだばかりだからつい、訊いちゃった」
整った顔立ちを柔かく溶かして少女は笑った。それは非常に爽やかな感じのする笑顔だった。少女が立ったままなので、梨乃も椅子から立ち上がる。少女の方が少し低いので百六十センチ、といったところだろうかと考えながら梨乃は少女を見つめた。
「珍しいのね。タイトルは知ってても、読んだって人はあんまり聞かないわよ」
「前の学校で演劇をやってたの。最後の劇がサロメだったから。あ。私、戸田美冬です。明日からこのクラスに転入することになってます」
彼女が軽くお辞儀をすると、腰まで流れている黒髪がふわりと揺れた。
「転入生…?もしかして、転入生は基本的に取らない事で有名なうちの転入試験に受かったって噂になってた…?」
梨乃の通っている学園は地域でも有名な中高一貫教育の私立校で規則も厳しい。良家の子女も通っているが、名実ともに名門校であることを標榜する此処は中途編入は原則的に認めない事でも有名だった。編入試験は存在するがあってもないようなものだ、というのがこの辺りでは通説で、其処に入っているだけで近所中から尊敬の目を向けられる、とも聞く。
「そうなの?」
そんなことも知らなかったらしい。美冬は本当に驚いたらしい顔をした。おそらく美冬は近隣の県から来たのではないのだろう。そう梨乃は思った。
「試験、難しかったでしょう?あれ、受からせる気がないって有名だったのよ」
「本当に難しかったー。弟と冗談じゃないって終った後話したしね」
あっさりと、美冬は同意する。
「弟も此処に?」
さっきから質問ばかりしている気がしたが、やはり梨乃は美冬に尋ねる。
「ええ。双子の弟でね、緑(りょく)って言うの。弟はC組よ。あ、そうだ。貴方の名前教えてくれる?」
「和倉…梨乃」
物怖じしない美冬の態度に逆に梨乃の方が押されるようだった。
「和倉さん?よろしくね」
「よろしく」
その時、鐘の音が響いた。梨乃は一瞬、ひきつったような顔をしたあと、小さく息を吐いた。そして、本をバッグに入れる。
「戸田さん…そろそろ門が閉まるから帰った方がいいわよ。此処、施錠が厳しいの。裏道もあるけど慣れない人は早めに帰った方がいいわ。正式に転入すれば誰か、教えてくれると思うけど…此処、夜は嫌な噂もあるし」
「嫌な噂?」
不思議そうに尋ねる美冬の方を向かないようにしながら梨乃は荷物を纏めて教室の扉に手をかけた。
そして、苦々しい声を漏らした。
「……人の首をもって笑う女が、出るっていう噂よ」