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サロメの刻印5(2004,10,8UP)

『失踪、ね。でもさぁ、何かワケありっぽいよね』
 好奇心に満ちた少女の声には、どこか楽しげでさえあった。そんな声を梨乃はあの事件の後、何度も耳にする事になる。
『事件に巻き込まれた可能性もあるって警察の人が言ってたらしいじゃない?』
『事件、か。そーいや最後に会ったのって、片倉なんだって?』
『片倉?』
『知らないのか?ほら、その先輩とちょっと揉めてて有名だったんだぜ』
『どんな風に?』
 元々は一部で有名、というだけだった梨乃と瞳のトラブルはあの失踪後、あっという間に広まっていった。
 失踪前には何人か瞳を諌め、梨乃を弁護してくれる人間もいたのだ。それが、「事件」を通して変わってしまった。
 元々、人付き合いの悪い梨乃と違い、瞳は人当たりのよい少女だった。いつも張り詰めているような梨乃と柔和な笑いを持つ瞳。積極的に他人に関わろうとしないという点と真面目な点ではある意味同じだったかもしれないが、それだけが決定的に違っていた。
 そして、それが最終的に状況を分けた。
 ぎくしゃくした関係の二人がいて、その二人が最後に会い、片方が消えた。
 それは確かに、「何か」があったと思わせる理由だった。

『片倉、梨乃さんだね?』
 教師に呼ばれ、連れて行かれた学園長室で梨乃は壮年の男性にそう聞かれた。
 頷く梨乃に男性は刑事だと名乗った。
『由佳川瞳さんの事で聞きたいことがあってね』
 その言葉は梨乃が半ば予想していた通りに始まった。
『彼女が二日前から登校していない事は、知ってるね』
 立ったまま、はい、と答えると刑事は梨乃に座るよう勧めた。座っている刑事と同じ目線になると、目をまっすぐに覗き込まれながら問われる。
『では、三日前の夜から彼女が帰宅してない事は知ってるかな?』
 少し黙り、いいえ、と返す。
『瞳さんも君も所属している生徒会の人間にも聞いたんだがね、その日、君と瞳さんが学園に最後まで残っていたという事なんだが』
 探るような目が梨乃の一挙一動を逃すまいとしているようだった。それが刑事の習性だと判っていても、あまり気持ちのいいものではない。
『何か心当たりはないかな?』
 何度か覚えがある感情が沸く。
 形だけの笑みが、気持ち悪い、と。

 一体、あの転入生は何を考えているのだろう。
 問い掛けと笑みを突きつけた美冬の表情が、何度思い返しても分からない。
 形だけの笑みを梨乃は何度も見てきた。笑顔は他人の抵抗を薄くするために用いれる表情のバリエーションの一つだ。だから、心に「何か」を持つ人間が笑みを用いるのは珍しい事ではない。その多くに梨乃が覚えるのは不快感だけだった。
 多少、斜に構えて物事を見ている自覚はあった。それだけに不快感を覚える事は数多かった。その笑顔の裏側が梨乃への敵意や猜疑心であると気づいてしまう事が多かったからだ。
 だが、あの笑みは違った。確かに好意や年相応の好奇心だけであんな事を言いはしないだろう。(装っているフリくらいはしていたけれど)
 では、何か、と問われると分からない。
 その裏にあるものは透明で見えない。言いようのない寒気がする気もする。怖い,とも思う。
(なのに、彼女を拒否する気にならない…)
 美しい黒髪を流して、微笑む戸田美冬という少女に対する印象は決して悪いものにはなっていないのだ。それが梨乃には不思議でならない。
「梨乃ちゃん。どうかしたの?」
「え?」
気づけば、そこは家の前だ。母が不思議そうに梨乃を見ている。
 もう大分、門の前に佇んでいたらしい。いつも帰宅する時よりもかなり日が傾いている。
「びっくりしたわよ。窓を閉めようと思って見たら、誰かが門の前に立ってるんだもの」
「ごめんなさい。…ちょっと、考え込んでて」
 母に促され、玄関に入るとシチューの香りがした。今日の夕食のメニューだろう。
「お母さん、今日は仕事早かったのね」
 時計を見る。いつもより遅い時間ではあったが、母の帰宅時間にしては早い。会長自体が忙しい人間な事もあって、秘書室も残業がある日が大半だからだ。
「たまにはね。だから、久しぶりにシチューにしてみたの。梨乃ちゃん、好きでしょう?」
 娘が喜ぶだろうと自分も嬉しそうにする様子に何故か、ぎくしゃくした表情をしてしまう。そんな気分に襲われながらも梨乃は何とか笑みを返した。
「…うん」

 使い終わったシチュー皿とスプーンを片付けながら、梨乃は何度か言い出そうとしては口を閉ざしていた。
 言い出す、と言っても何を言い出せばいいのか実はよくわかっていないのかもしれない。
 それに気づいているのかどうか、秋乃はいつもと変わらず穏かに片付けを続けるだけだ。別に何も気にする必要はないのかもしれない。けれど、それではあの転入生の問いかけに今後も答えられない日々が続くだけだ。
「お母さんに…訊きたい事があって」
 やっとそれだけを口にする。
「なぁに?」
「私が、飲んでる頭痛薬…なんだけど」
 秋乃は振り向かない。
「どうして、あんな薬が手に入るの?」
「どうして?」
 秋乃の食器を洗う手が止まった。
「会長の好意、よ。そうでなければとても手に入らない高価なものなんだけど」
 振り返って梨乃を見据える微笑はいつもと変わらない。
 いや、一見すると変わらないように見えた。
 これ以上はやめておけばいい、そんな気もした。
「……あんな薬がどうして、いつまでも無認可、なの?」
 高価だから、と母は言う。だが、高価であっても効果があるものなら需要は高いはずだ。それが表にも出ず、作られ続けているという事から何か非合法なものがあるのではないかと勘繰られているのかもしれない。美冬が言っている事に梨乃は、そう説明をつけた。
 彼女に答える、答えないは関係ない。知る事で、答えないという選択肢もできる筈だ。
「誰に、何を言われたの?」
 だが、秋乃は薄く微笑み続けるだけだった。
 それが「企業秘密だから」という態度でない事だけは感じ取れる。
「梨乃ちゃんには、必要でしょう?薬が」
 穏かではあるものの秋乃の口調には有無を言わせぬ勢いがあった。
「お母さん!」
 反発をどう口にしたらいいか判らず、叫ぶ。
「昔から、そう。梨乃ちゃんは体が弱いのよ?小学生頃まではよく倒れていたじゃない」
 それは事実だ。けれど違う。
(今は、そんな話してるんじゃない。…それとも、話を逸らそうとしてるの?)
「お母さん…その話はもうしないようにしよう、って約束したじゃない…」
「そうだったわね」
 秋乃は頷く。
 今もひどい偏頭痛に悩まされている梨乃だが、昔はそれがさらにひどかった。偏頭痛自体は今ほどひどくなかったかもしれない。だが、少し無理をすると貧血を起こして倒れる事もしばしばだった。
 そのたびに、秋乃は会社を抜けて梨乃を迎えに来た。しばらく入院した事もあった。
 それもあって、昔の秋乃はひどく過保護だった。何処に行くにも付いていき、あれこれ世話を焼く。それに梨乃や父親が異を唱えても決して聞いてはくれなかった。今のように距離を取れる関係になったのは梨乃が中学に進学してからの事だ。
 昔の秋乃なら、会社で仕事があるからといって梨乃を一人にするような事は絶対無かった。梨乃が倒れなくなって、少しずつ家を空けるようになり、今のような関係になるまでには数年かかった。
「もう体は大丈夫なんだから、一々昔の話を持ち出さないでほしい…って言われたことならちゃんと、覚えてるわ」
「だったら!……子供の頃の事はもういいから、私の話にちゃんと答えて」
「梨乃ちゃんはね、私の大事な娘なの。だから、何も知らなくていいのよ」
 秋乃は梨乃の言葉には耳を貸さず微笑むだけだ。
「貴方に余計な事を教えようとするのは…・・今度はだれかしら?」


 同日同時刻、一人の少年と一人の少女は暗い部屋の中に居た。
「まったく!自分の行動に気分が悪くなるわ」
 長い黒髪を流したまま少女は体を椅子に預けている。
「それは解りますけどね。多分、これが一番目的に近づく方法ですよ。姉さん」
 苦々しげな言葉を吐く少女に少年がやんわりと答える。
「……ついでに、あんたのその『姉さん』って呼び方も気分が悪いんだけど?緑」
 美冬に睨まれて緑が困ったように笑う。
「すみません。いい案だと思ったんですけどね、双子の姉弟って」
「顔も似てないのに?」
 返す言葉はにべもない。
 確かに二人の顔は似ていない。だが、二人の纏っている空気はとてもよく似ていた。そしてそれは昼間以上に今、顕著になっていた。
「文句があるなら、萌さんにでも言って下さい。今回の『潜入』で双子にしよう、って言ったのは彼女ですよ」
「言えたら苦労はしないわ。と言うか、言って聞いてもらえたら苦労はしないって所ね」
 溜め息混じりに笑うと、美冬はすっと立ち上がった。
「どこへ?」
 そのまま扉に手をかけると、音を立てずに開く。
「そろそろ今日のもう一つの目的も果しにいく時間でしょう。セキュリティは切れてるわよね?」
「例のエリアの奥は今、咲夜がどうにかしているそうです。着く頃には終っていると思いますよ」
 緑も、美冬に続くように扉を出る。
 立ちどまって待つ美冬の耳元では桜の花弁を模したピアスが月光を浴びて柔かく輝いた。
「月が綺麗ですね」
「そうね。行きましょうか」

 

旧校舎の窓からは蒼白い月が見えていた。雲一つない空には月と星が静かに輝いている。

「噂の『幽霊』に会いに」

                        to be continued

 私は、知っていた。知っていたから答えた。幽霊なんて居ない、と。
だって私は、見たのだ。


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